大宮氷川神社はなぜ「武蔵一宮」と呼ばれるのか、長い参道を歩きながら考える

はじめまして、旅行ライターの三輪千景です。
旅行会社で15年ほど添乗員をしていて、寺社巡りのツアーも数多く企画してきました。
いまは全国の一宮を少しずつ訪ねながら、参拝記を書いています。

一宮巡りを始めたころ、府中の大國魂神社で掲示を見て首をかしげたことがあります。
境内に祀られた武蔵国の六つの神社の中で、大宮の氷川神社が「三ノ宮」と書かれていたのです。

氷川神社といえば、正式には「武蔵一宮 氷川神社」と名乗る神社です。
同じ武蔵国の中で、一宮と三宮という二つの呼び方があるのはなぜか。
この記事では、辞典や神社の公式資料をたどりながら、その理由を整理していきます。

答えの手がかりは、本や資料の中だけにあるわけではありません。
約2kmの氷川参道を歩くと、石に刻まれた「一宮」の文字にいくつも出会えます。
参道の歩き方とあわせて、ご案内します。

そもそも「一宮」とはどんな格付けなのか

朝廷が法令で決めた制度ではない

一宮は、国ごとに「その国で第一の神社」とされた社のことです。
ただ、朝廷が法令で定めた制度ではありません。

日本大百科全書の「一宮」の項目によると、神祇官や国司が公式に決めたものではなく、民間で唱えられ始めた呼び名とされています。
文献に初めて出てくるのは12世紀前半の『今昔物語』で、周防国の「一宮玉祖大明神」という記述です。

しかも、全国で一斉に決まったわけではありません。
古代の終わりから中世の初めにかけて、国ごとに少しずつ呼ばれるようになったと考えられています。
決め方がはっきりしないので、時代が下ると一宮が入れ替わったり、二つの神社が一宮を名乗り合ったりする国も出てきました。

選ばれた理由には諸説ある

では、どんな神社が一宮になったのか。
同じ辞典は、江戸時代から唱えられてきた説として次のようなものを挙げています。

  • 国の中でいちばん位階の高い神社
  • 神祇官からの知らせを国内の神社へ伝える窓口だった神社
  • 国司が任国に着いて最初にお参りした神社
  • 国の中でいちばん社領が多かった神社

辞典はこれらの説を「いずれも従いがたく」としたうえで、その国で特に由緒が古く、信仰を集め、経済力もあった神社が一宮と呼ばれたのだろう、とまとめています。
ひとつの物差しで決まったわけではない、というのが一宮のややこしさです。

武蔵国には「一宮」が二つある

府中の六所宮で氷川神社は「三ノ宮」

武蔵国の国府は、いまの東京都府中市に置かれていました。
そこに鎮座する大國魂神社は、武蔵国の「総社」です。

大國魂神社の由緒によると、国司が国内の神社を巡ってお参りする手間を省くため、国内の神々をこの地にまとめて祀ったのが総社の始まりです。
武蔵国の有名な六つの神社を祀ったことから、「六所宮」とも呼ばれてきました。

その六社の並びは次のとおりです。

順位神社所在地
一ノ宮小野神社東京都多摩市一ノ宮
二ノ宮二宮神社(小河神社)東京都あきる野市
三ノ宮氷川神社埼玉県さいたま市大宮区
四ノ宮秩父神社埼玉県秩父市
五ノ宮金鑚神社埼玉県児玉郡神川町
六ノ宮杉山神社神奈川県横浜市緑区

私が首をかしげたのは、この表の三番目でした。
府中の総社から見ると、氷川神社は三ノ宮という位置づけなのです。

中世の『神道集』では小野神社が一宮

この並びは、中世の史料とも重なります。
南北朝時代にまとめられた説話集『神道集』では、多摩市の小野神社が武蔵国の一宮、氷川神社が三宮とされています。

平凡社『日本歴史地名大系』の小野神社の項目は、この点に踏み込んでいます。
『大日本国一宮記』では氷川神社が一宮とされているものの、『神道集』では三宮であることから、「氷川神社の一宮の称は戦国期をさかのぼり得ないと考えられる」と書いています。

小野神社は多摩川の近くにあり、川を渡れば国府のあった府中です。
いまも地名が「一ノ宮」であることからも、この地域で長く一宮として親しまれてきたことがうかがえます。

それでも氷川神社が一宮と呼ばれてきた背景

一方で、平安時代の神社の格付けを見ると、印象が逆転します。
10世紀にまとめられた『延喜式』の神名帳では、氷川神社は「名神大社」に数えられています。
小野神社は「小社」です。

氷川神社の由緒・歴史によると、氷川神社は月次祭と新嘗祭のたびに神祇官から幣帛(お供え物)が届けられ、武蔵国の中でも格別の扱いを受けていました。
天平神護2年(766)に朝廷から封戸三戸が寄進された記録も残っています。

神社の公式な説明は、一宮を「平安時代から中世にかけて諸国で次第に決まっていった古い社格」としています。
そのうえで、古くから朝廷の崇敬を厚く受けてきたことが「一宮として信仰される所以」だと説明しています。

明治元年には、東京に移った明治天皇が氷川神社を武蔵国の鎮守勅祭の社と定めました。
同じ年の10月28日に行幸し、天皇みずから祭儀を行っています。
その後の明治4年には官幣大社になりました。

整理すると、次のようになります。

  • 中世の史料では、国府に近い小野神社が一宮、氷川神社は三宮とされていた
  • 古代の格付けでは、名神大社の氷川神社のほうが上だった
  • 氷川神社を一宮と呼ぶのは、早くても戦国時代からと考えられている。明治には天皇の勅祭社になった
  • 現在は両社とも武蔵国の一宮として知られている

どちらかが正しく、どちらかが間違っている、という話ではないと私は受け止めています。
一宮はもともと民間の呼び名で、時代とともに移り変わるものでした。
武蔵国の場合は、それがいまも二つの神社に重なって残っているのだと思います。

「一宮」の名乗りは参道の石に刻まれている

ここからは、氷川参道を歩きながら見ていきます。
氷川神社の参道は中山道から約2kmあり、さいたま市によるとケヤキを中心におよそ650本の木が南北に続いています。
この参道には、氷川神社が一宮を名乗ってきた跡が、石造物としていくつも残っています。

一の鳥居脇の「武蔵国一宮」標石

最初に見ておきたいのが、一の鳥居の脇に立つ「武蔵国一宮」の標石です。
神社の由緒によると、享保7年(1722)に氏子の人々が奉納したもので、文字は江戸時代中期の書家、佐々木文山の筆です。
神社に現存する石造物の中で最も古いものとされています。

この石には、もとは「本地聖観世音」という文字も刻まれていました。
慶應4年(1868)の神仏判然令を受けて削られ、いまはわずかに跡が残るだけです。
神と仏がひとつに祀られていた時代の名残が、一宮の文字と同じ石にあります。

すぐそばには「是より宮まで十八丁」と刻まれた丁石もあります。
ここが参道の距離を示す丁石の起点で、参道の東側に同じ間隔で並んでいます。
数字を数えながら歩くと、2kmの道のりも案外あっという間です。

17丁付近に立つ二基の石燈籠

丁石を追って17丁のあたりまで来たら、石燈籠を探してください。
西側の燈籠には「武蔵国総鎮守一宮式内名神大月次新嘗」と刻まれています。

長い文字列ですが、区切って読むと意味がつかめます。
「式内名神大」は延喜式に載る名神大社、「月次新嘗」は月次祭と新嘗祭に幣帛を受ける神社という意味です。
先ほど見た古代の格付けが、そのまま石に彫られているのです。

東側の燈籠には「武蔵国一宮東国総鎮守氷川両本宮」とあります。
「両本宮」は、かつて神橋の先に祀られていた男体宮と女体宮のことを指します。
どちらの燈籠にも「御橋内」の銘があり、もとは拝殿の前に建てられていたことが分かります。

ちなみに、江戸時代には17丁のあたりにも鳥居が建っていて、そこがかつての二の鳥居でした。
当時の参道には四基の鳥居があり、明治から昭和にかけての造営で三基になったと神社は説明しています。
いま歩いている参道も、鳥居の数や位置を変えながら姿を整えてきた道なのです。

参道で見られる痕跡

参道沿いで見られる石造物を、時代順に並べてみます。

場所石造物建てられた年刻まれた主な文字
一の鳥居脇標石享保7年(1722)武蔵国一宮
17丁付近の西側石燈籠文化14年(1817)武蔵国総鎮守一宮式内名神大月次新嘗
二の鳥居前石燈籠一対嘉永6年(1853)大宮宿本陣の名など
17丁付近の東側石燈籠安政6年(1859)武蔵国一宮東国総鎮守氷川両本宮
二の鳥居前の西側社号碑明治32年(1899)官幣大社 氷川神社

江戸時代の中ごろから、氏子の人々が「一宮」の名を石に刻み、繰り返し奉納してきたことが分かります。
二の鳥居前の石燈籠は、四本の脚の間から獅子がのぞく姿から「八方睨みの獅子」と呼ばれていて、こちらも見ておきたい石造物です。

石造物ではありませんが、二の鳥居そのものにも由来があります。
いまの木造の明神鳥居は、昭和51年に明治神宮から移されたものです。
大正9年に建てられた鳥居で、台湾総督府から献木された、阿里山の樹齢1200年以上の檜が使われています。
明治天皇の勅祭社となった神社に、明治天皇を祀る神宮の鳥居が建っている、という巡り合わせも覚えておくと、くぐるときの気持ちが少し変わります。

参道そのものは江戸初期の街道付け替えから生まれた

参道の成り立ちにもふれておきます。
氷川神社の資料によると、かつての中山道は、いまの参道の東側を通っていたと考えられています。

寛永5年(1628)、関東代官の伊奈忠治が街道を台地の西側に移し、新たに大宮宿をつくりました。
いまの氷川参道は、この付け替えのあとに切り開かれた、中山道と境内を結ぶまっすぐな道です。

大正から昭和の初めごろまでは杉並木で、「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われていました。
戦中・戦後に伐られるなどして、いまのケヤキ中心の並木に変わっています。
「大宮」という地名も、氷川神社を「大いなる宮居」とたたえたことから生まれたと神社は伝えています。

一の鳥居から歩くときの段取り

添乗員時代、この参道はお客様に「必ず一の鳥居から歩いてください」とおすすめしていました。
大宮駅から向かうと、参道の途中から合流することになり、標石や丁石の起点を見逃してしまうからです。

段取りは次のように組むと迷いません。

  • 一の鳥居の最寄りは、JRさいたま新都心駅
  • JR東日本の案内では、新都心駅から一の鳥居を通って神社まで徒歩40分ほど
  • 帰りは神社から大宮駅東口まで徒歩約15分(神社の案内による)
  • 石造物を見ながら歩くなら、時間には余裕を持たせる

2026年は、参道まわりに変化があります。
さいたま市の発表によると、2026年10月26日から、一の鳥居から南大通東線までの南区間360mなどが歩行者専用になります。
自転車は通れますが徐行が求められるので、歩く側も周りに気を配りながら進みましょう。

境内では、御鎮座2500年記念事業として拝殿の耐震補強と屋根の葺き替え工事が、2026年12月15日までの予定で行われています。
工事期間中は本殿での正式参拝は行わず、祈祷殿で受け付けると神社が案内しています。
ご祈祷を考えている方は、事前に神社のお知らせを確認しておくと安心です。

参道を歩き終えて境内に入ってからの楽しみ方は、ほかの方の参拝記も参考になります。
私がよく読んでいるのは、浜西慎一さんの神社巡りブログ「日本文化を探る旅」です。
大宮氷川神社の回では、境内の摂社・末社や蛇の池、参拝のあとに立ち寄れる周辺のお店まで紹介されています。
諏訪大社や伏見稲荷大社の記事もあり、一宮巡りの次の行き先を考えるときにも役立ちます。

まとめ

大宮の氷川神社が「武蔵一宮」と呼ばれる理由を、あらためて振り返ります。

一宮は朝廷が決めた制度ではなく、平安時代の終わりごろから国ごとに生まれた呼び名でした。
中世の史料では、武蔵国の一宮は国府に近い小野神社で、氷川神社は三宮とされていました。
一方で氷川神社は古代から名神大社として格別の扱いを受けていて、一宮と呼ばれるようになったのは、早くても戦国時代からと考えられています。
明治には天皇の勅祭社となり、いまでは小野神社とともに武蔵国の一宮として知られています。

その歩みは、参道の石にも刻まれています。
享保の標石、文化と安政の石燈籠を順にたどると、人々が「一宮」の名を大切にしてきた跡が見えてきます。

次に大宮を訪ねるときは、ぜひさいたま新都心駅で降りて、一の鳥居から歩いてみてください。
丁石を一つずつ数えながら進むと、ふだんは気づかずに通り過ぎていた石の文字が読めるようになります。

最終更新日 2026年10月12日 by landru

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